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私は現在35歳で、夫の転勤で全国を転々としている普通の主婦です。
私は夫の転勤についていきながらも、自分もキャリアを諦めたくないという思いが心の奥底にありました。
転勤のたびに転職を繰り返しながら色々なスキルをつまみ食いしている中で知ったことがあります。
世の中には「マーケティング」ということが全てにおいて関わっているということ。
この事実を知った私は、以下の目標を掲げました。
と思ったあなたに。(笑)
是非この記事を最後まで読んでいただきたいです。
なぜ普通の主婦がそんな道を進むことになったのか。
この記事では、私のきっかけと経緯についてお話させていただきます。
【基本情報】
・こと|1988年生まれ
・転勤族|寡黙な夫と二人暮らし
・性格|おままごとは必ずお母さん役!の世話焼き長女
・仕事|医療系フリーランス(管理栄養士)
【幼少期】「いい子ちゃん」の子ども時代
なんでも頑張るいい子
会社員の父と専業主婦とのあいだに長女として生まれました。
母は教育熱心で、ピアノ、習字、公文、塾、水泳など色々な習い事をさせてくれました。
幼いながら、親の期待に応えたい、褒められたい!となんでも頑張る子で、
「すごいね」「さすがだね」
そんな言葉が自己肯定感を高めてくれていたので、親に認めてもらうために勉強も運動も頑張る子でした。
小学校の卒業式に飾る書道の課題で「好きな言葉を書きましょう」という課題では、
友人たちの「笑顔」「元気」という作品の中に
「一生懸命」と書いていたくらいです。(笑)
【中学生】食べる事をやめた反抗期
受験・ダイエット「数字」に執着して摂食障害に
中学3年生、受験生となった私は本格的に受験勉強をスタート。
頑張り屋さんを発揮し、成績は少しずつ伸びて模試でも上位になることもでてきました。
一方で思春期の自分は、ある休み時間の友人の会話が耳に入ります。
「身体測定、体重何㎏だった?」
「え~太ったあ」
そんな会話を耳にし、今まで気にしたことがなかった自分の体重が気になり始めました。
今思い返せば普通体型だったのですが、
自分が太っているのかもと気になってしまった私は、その日は夕食なしに。
次の日体重を測ると、‐1㎏くらい減っていて
(なにこれ、おもしろい…)
密かな快感のようなものを覚え、体重を減らすことを徹底し始めます。
当時は女の子同士のちょっとしたトラブルやいじめに嫌気がさしていました。昨日まで仲が良かったはずなのに、急に避けられてしまったり、順番に回ってくる悪口の対象。
よくある思春期のあるあるですが、当時の私は友人関係がしんどくなり、頑張った分だけ数字として現れる成績とダイエット、裏切らない「数字」で努力が報われる、勉強とダイエットにのめり込んでいきました。
異変に気付いた両親に病院へ連れていかれつつも、自覚はありません。
○㎏まで痩せる!という目標が特にあった訳ではなかったので、
(あと-1kg、もう-1kg‥)
と気付いたら体重を減らす事をやめられなくなってしまいました。
志望校への入学を目標にしていた私に、医師は何度も入院を進めましたが、イヤイヤ反抗期を発揮し(先生わがままいってごめんなさい)気力で受験を乗り越え、なんとか志望の高校へ入学しました。
【高校生】とにかく周りの目が気になるJK
結局入院。高校生活に遅れをとる
高校に入ったからといってすぐに病状がよくなるわけではなく、むしろ悪化。
入学して3ヶ月ほどで体力気力ともに限界を迎え、結局入院となってしまいました。
病院のベットで過ごした数ヶ月間、学校では文化祭や夏休みを楽しむ友人たち。
キラキラしている女子高生のイメージとは裏腹、「私は何をしたいんだろう?」と病院のベットで天井を見つめる日々。
治したい反面太ることが怖く、この摂食障害は以降20年ほどつきまとうことになりました。
数か月の入院生活を経て学校に復帰したものの、すでに浦島太郎状態。(笑)
中学時代のいじめのトラウマで1人になることが怖かった私は、周りの友人たちに合わせてとにかく角が立たないように過ごしていました。
「頑張らなくていい」
痩せ細って動けなくなった入院前、そして入院中に母にいわれた言葉です。
なんでも頑張る自分が私らしかったのですが、病気になってから気力がなくなり、中学まではトップだった成績も、中の中くらいをキープしながら、頑張ることをほどほどに過ごしていました。
大学受験も、「受験で拒食症になったから推薦でいける学校でいい」という親の意見を受け、受験に向けて頑張ることは止めました。
推薦でいける学校を選ぶ中で、病気になるきっかけとなった栄養のことを勉強しようかな、と栄養学部を志望。管理栄養士過程には4年制と2年制がありましたが、親のお財布事情を気にして、短大に行きました。
【大学~社会人】モヤモヤ過ごす日々
短大を卒業し3年間の実務経験を経て、仕事をしながら国家試験の勉強に励みながら、なんとか1回の受験で管理栄養士の国家試験に合格をすることができました。
仕事を続けていく中で、もっと栄養素を詳しく扱う仕事がしたいなあ…と思いながらも
「でも休みはとりやすいし」
「慣れてきてラクだし」
転職しようと思えばできたものの現状を変える、辞めるという行動に移せずにいました。
辞めるなら仕事が決まってから、というなぜかマイルールがあり、転職に向けて水面下で仕事終わりにコツコツ勉強に励んでいた3年計画で立てていた試験の途中で結婚が決まり、彼の意向もあり家庭に入ることを決めました。
【選んだ結婚】転勤族の壁
苦労する転職
結婚と同時に退職を決め、新しい土地で専業主婦として新生活をスタート。
「資格はあるし落ち着いたらまた仕事を探せばいっか」
そんな軽い気持ちだったと思います。
しかしいざ仕事を再開しようとすると、転勤族がゆえの転職活動に苦労することになります。
・転職エージェントの方から「転勤族だと正社員は難しいと思いますよ」
・面接中に「うーん、2~3年で転勤するならねえ…(履歴書閉じられる)」
・「専門知識が必要なので長く働ける人を採用させていただくことにしました」(お祈り)
・新しい提案をしても上司に、「どうせ数年でいなくなるんだからやらなくていいよ。」
子どもができたらどうなっちゃうんだろう…と、ますます不安になります。
この記事を読んで下さっている方の中には、
扶養内で働いて、旦那さんについていけばいいのでは?
わざわざ無理して働く必要ってある?
そう思った方もいらっしゃるかもしれません。
私も同じ考えで、扶養内で働いているのがベターだと思っていました。
大人しく扶養内で働く
扶養内で働くことに決め、医療系以外の仕事も経験してみたいな、と接客の仕事に。
同僚には恵まれていましたが、誰でもできる内容でやりがいは感じない。
1年ほどして夫の転勤が決まりました。
あの悔しいを思い再びするものか!と異動の話を聞いた瞬間求人サイトを開き、綿密な転職計画を開始(笑)
たまたま近くのクリニックで管理栄養士の募集があり、問い合わせをしてみたら面接をしてもらえることに。
当時Zoomは普及しておらず、Skypeというビデオ電話ツールを使って面接をし、何とか1次面接を突破!
バタバタ引越し準備を済ませ、転居2日後に2次面接だったので、
まだ山積みの段ボールの中からスーツを引っ張り出し面接へ向かいました。(笑)
なんと、採用いただくことができ、今回はスムーズに転職成功!
仕事が決まった!
趣味の友達もできて私は順調。
そんな中新しい勤務先で、夫の様子がおかしい‥
元々寡黙でもの静かな人なのですが休み日もずっとベットから起きてこなくなり、ある日、
「会社に行けない」
急性ストレス障害、うつ病と診断され休職を余儀なくされます。
近くにいながら気付いてあげられなかったことにすごく後悔をしました。
この先、転勤があっても家族のそばにいることを優先しよう。
この時に、そう決心しました。
それまでの選択肢としては、
今後もし子どもができたら単身赴任?
周りにはそういう家族も多いし、いずれそうなるのかな。
と漠然と思っていましたが、家族の健康をそばで守りたいと思うように。
夫はしばらく体を休める事で少し元気にはなりましたが、
健康面に配慮し1年経たずして異動することになりました。
同じように、転勤が決まったら即行動!を繰り返し、面接で風当たりの強いことを言われながらも、入職した先では、
「どうせ辞めるんだから余計なことはしなくていい」
「あなたは、いずれいなくなるんだから」
期待されない自分は悔しかったけど、
転勤族だから仕方ない、と諦めていました。
【副業】Webで1円稼いでみたら
勤め先はWeb上にもある
転勤に対してネガティブな企業が多かったなか、ある日業務委託で管理栄養士のWebライティングのお仕事募集がありました。
ちょうどその頃、予防医療のひとつであるオーソモレキュラー栄養療法という栄養医学に関する資格を取得したところでした。
この治療法が必要な方に届くといいな。
そんな想いがありましたが、少しニッチな分野であまり知られていないのが現状でした。
と思い、応募してみることに。
単発ではありましたが、栄養医学の知識を活かして
・webライティング
・オウンドメディア(企業のWebサイト)での記事作成
・チラシ作成
・セミナー資料作成
のお仕事など、できそうなお仕事に少しずつ挑戦。
中には単価がすごく安い+私自身もライティングに慣れていない頃は
1記事2000円のお仕事を1日かかって書いて、
「え、時給いくらなの‥泣」
と現実を見ると悲しくなりましたが、
実際に自分の書いた記事がweb上に公開されると嬉しい気持ちになりました。
今まで、勤め先に出勤するのが当たり前だと思っていましたが、
勤め先はWeb上にもあるんだ、と思うように。
1年くらいコツコツ続けていると、徐々に上記のお仕事に加え、セミナーの講師やレシピ監修のお仕事をご依頼いただけるようになりました。
嬉しさ半面、家族との時間を削り、休み返上でお仕事に励む日々。
そのうち家事も手が回らなくなる。
普段文句も言わずに家事をやってくれていた夫も
「俺って都合良く使われてるだけじゃん」
とぽつり。
そう思うも、毎日のタスクをこなすのに精一杯。
自転車操業のこの毎日を変えたい。ともやもやしながら過ごしていました。
マーケティングとの出会い
そんな中、お仕事のひとつで秘書業務や広報、SNS運用などの業務に携わることに。
Webに関するお仕事を全くしたことが無い私でしたが、
素晴らしいコンテンツをどう届けていこうか、
手探りで方法を模索し始めます。
すぐに壁にぶち当たりました。
・思ったようにセミナーに人を集められない。
・見てくれてる人が知りたいことと、届けたい想いに乖離がある感じがする。
・でもどう届けていくのが正しいのか分からない。
もどかしさを感じながらも、手探りでビジネス書を読み漁りました。
その中で時折出てくる「マーケティング」という言葉。
【マーケティングとは】
集客をすることから、売り上げをあげるところまでの全てのプロセスのこと
マーケティングの神様といわれている、ドラッカーという方は、
「販売しなくても商品が売れる状態を目指すこと」
がマーケティングのゴールであると定義しています。
この言葉に触れて、世の中のビジネスにはマーケティングが関わっていることを知り、日々の暮らしのなかで物を見る景色が変わったような衝撃を受けました。
・こだわりがたくさん書いてあるオーガニックの商品
・普段何気なく見ているコンビニに貼ってあるチラシが毎週変わっていること
・本屋さんでつい中身を見た本にはキャッチコピーに惹かれていたこと
このように、色々なものに触れる中で、
そう感じるようになります。
「副業」から「複業」へ
最初は副業のつもりで行っていた仕事もだんだんと比重が変わっていき、現在は複数の仕事を持つ「複業」という働き方をしています。
現在は午前中は会社員、午後や休日はフリーランスとして働いていますが、問題も山積みです。
・社保の要件を満たせない(会社の勤務時間が短いので健康保険・国民年金は自己負担)
・扶養にも入れない(超える月もあるため夫の共済組合からNG)
・仕事が不安定
・単価が低い
勢いで起業コンサルを受けるも‥
稼ぐ力をつけなくては。
この状況をなんとかしたくて、なかば勢いで受けることにした起業コンサル。
結論から申し上げると、そこで稼ぐことはできませんでした。
ビジネスとはなんぞや、という大枠を知ることはできたかなと思っていますが、言語化する、行動に移すアウトプットが圧倒的に足りていないことに気が付きます。
スキルをつまみ食いして、どんどんスキル太りしている私。
そんな時に知りたい分野を学べるスクールを知りました。
「また失敗したくないな…」
と頭をよぎるも「このまま諦めたくない!」という気持ちの方が強く、0から再奮起し
#リボラボというオンラインスクールに入り0から学び始めることを決め、現在に至ります。
さいごに
「家族のそばで、私らしくキャリアも諦めずに生きていきたい」
私はそんな欲張りな想いを叶えたいと思っています。
冒頭でもお話したように、目標は夫の次の転勤までに月収30万円の収入を安定して得ることです。
女性には多様な役割があります。
・家族の健康を守る妻として
・子どもたちの母親として
・夫家族の嫁として
・職場では後輩を教育したり責任ある立場として
中でも結婚、出産、介護などのライフステージによって仕事をセーブしたり、キャリアチェンジを余儀なくされることがあります。
夫の職場は2~3年毎の異動が一般的。
来年あたりにはいつ異動の話がきてもおかしくない状態。
そのため具体的には1年後を目標にし、これから計画したプロセスに沿って行動していきます。
私と同じように、
・転勤のたびに繰り返す転職に疲れたけど、自分の好きなこともしたい
・キャリアを諦めていたけど、本当はやりたいことがある
・妊娠、出産とライフステージに応じた働き方をしたい
と、もがいている方へ一歩進む勇気を届けたいと思っています。
私を実験台のように考え、ごく普通の主婦がWebマーケティングを身につけたらどうなるのか、その答えをこのWebサイトで確かめてみて下さい。
皆さんが私のやり方を参考にして一歩進みたいと思った時、
その道しるべとなるように記録に残し発信していきたいと思っています。
良かったら時々私の成長状況を見に遊びにきてください。
最後までご覧いただきありがとうございました!